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2015/05/10

呉、江田島、広島、松山を旅行して?

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呉、江田島、広島、松山を旅行して(その3)

                    2015年4月30日 北川泰弘

5.330日午後 広島にあった我が家の跡を訪ねる

午後、フェリーで呉に戻り、呉線で広島に戻り、鎌倉の自宅に帰る上野君と
別れて広島市内を散歩した。
70年前の原爆当時に家族が住んでいた白島界隈を歩いた。
山陽線に「新白島」という駅が出来て、広島駅から岩国行きの電車で
3分で着いた。市電で行くよりも早かったが、着いた方角が違い少し迷った。
どうやら、母、姉、二人の弟が住んでいた白島中町4番地を見付けることができた。
今は大林組の宿舎になっている。原爆の時、母、姉、二人の弟とも
色々な偶然が幸いして命を失わなかった。家が全焼したので、近くの川の土手で
夜を過ごしたそうだ。それらしき土手に行って見たら、土手は桜が満開で、
家族客はシートを敷き、会社のグループは桟敷席で花見の宴会の最中であった。
小生も花の下の露店におでんと生ビールを注文してイッパイやった。

夜は流川に行って呉の銘酒「千福」の樽酒を飲ませる店を探したが
見つからなかった。無料案内所が方々の街角にあったが、女遊びをする店は教えるが、
酒の美味しい店は知らないと教えてくれなかった。流川は変わったのか?

 

写真6 原爆の時に我が家があった所

写真7 原爆直後の避難先が桜の名所へ


6.331日午前 平和公園 亡き両親、姉、外山三郎教官の遺影に再会

午前中は平和公園に行き、原爆犠牲者祈念館のパソコンに
入力してある両親、姉、終戦時の分隊監事、外山三郎教官の遺影を拝んだ。
外山教官は原爆直後に被災者救援物資を持って広島を訪れたとのことだ。
当時の避難先の屋代島に帰校後、残留放射能による発熱に苦しまれた。
私の家族も原爆により即死しなかったが、残留放射能にやられて苦しんだ。

写真8 原爆犠牲者祈念館

 

 写真9 祈念館に納められた、姉、愛子の写真。原爆症で一番苦しんだのは愛子だった。

 

 

 

 


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